仏法の理(ことわり)になぞらえて、説かせていただきましょう。
これは、単なるマナーの話ではありません。
「因果応報(いんがおうほう)」という、逃れることのできない宇宙の法則のお話です。
第一章:捨てる者の心の闇(心理)
~三毒に侵された魂~
釣り場にごみを残していく者の心には、仏教で言う**「三毒(さんどく)」**が渦巻いております。
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貪(とん=むさぼり): 「魚は釣りたい、楽しみは享受したい。しかし、片付けという労力は払いたくない」という、浅ましい自分勝手な心です。海からの恵みだけを奪い、対価を払わぬその姿は、まさに**「餓鬼(がき)」**の如し。
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** 癡(ち=おろかさ):** 「自分ひとりくらいなら」「誰も見ていないから」という無知と想像力の欠如です。天が見ていることを忘れ、たった一つのごみが、やがて釣り場閉鎖という巨大な災いになる因果が見えていない。これを**「無明(むみょう)」**と言います。
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慢(まん=おごり): 「海は自分のゴミ箱だ」「誰かが片付けるだろう」という傲慢さ。自然に対する畏敬の念を失い、己を特別な存在だと勘違いしている。この驕りが、最も罪深いのです。
彼らは、ごみを捨てた瞬間に「楽をした」と思っていますが、実はその瞬間、心に**「業(ごう)」**という消えない汚れを刻んでいるのです。
第二章:待ち受ける現世と来世の地獄
~釣りができなくなるという無間地獄~
ごみを捨てる者たちよ、よくお聞きなさい。
あなた方の行く末には、二つの地獄が口を開けて待っています。
一、現世(げんせ)の地獄:【立入禁止地獄】
これが最も恐ろしく、現実的な地獄です。
あなた方が捨てたごみは、地主や地元住民の「怒り」という業火(ごうか)となり、やがて**「釣り場閉鎖」**という形で跳ね返ってきます。
愛した海、思い出の堤防に、ある日突然、鉄の柵が張られる。
「釣り禁止」の看板が、卒塔婆(そとば)のように立ち並ぶ。
竿を出す場所を失い、彷徨(さまよ)うことになります。
海はそこにあるのに、糸を垂れることが許されない。
これは、釣り人にとっての**「無間地獄(むけんじごく)」**そのものではありませんか。
自らの手で、自らの楽園を焼き払ったのです。
二、心の地獄:【畜生道の極み】
ごみを捨てて平気でいられる心は、もはや人間のものではありません。
恥を知り、恩を感じるのが人間です。恩恵を与えてくれる海を汚す行為は、恩を仇で返すこと。
その心は、理性を失った**「畜生道(ちくしょうどう)」**へと堕ちています。
釣った魚がどんなに大きくても、その背後には汚れたごみの山がある。
そのような釣り人の竿には、もはや「喜び」は宿りません。
「誰かに見つかるかもしれない」「後ろめたい」という微かな恐怖に常に追われ、心安らかに糸を垂れる時間は二度と訪れないでしょう。
第三章:救済の道
~拾うことは、徳を積むこと~
しかし、絶望することはありません。仏の道は常に開かれています。
「ごみを拾う」。
ただそれだけで、悪縁を断ち切ることができます。
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自分のごみを持ち帰る: これは「持戒(じかい)」、人としての最低限のルールを守ること。
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人のごみも拾う: これは「布施(ふせ)」、海への恩返しであり、徳を積む行為。
足元の空き缶一つを拾う腰の動きは、仏への五体投地(ごたいとうち)と同じ尊さがあります。
海を綺麗にして帰るその背中には、後光が差すでしょう。
徳を積んだ者の竿には、不思議と良き魚が、良き縁と共に舞い込むものです。
「来た時よりも美しく」 その清らかな心が、未来永劫、この南紀の豊かな海を守り、あなた自身の釣り人生をも救うのです。


