その日、僕は一人で海にいた。
季節は春。
夕陽が西の水平線に沈みかけ、潮は静かに満ち始めていた。
潮の動きに合わせて、僕は一投目のエギを放った。
いつもよりもゆっくり、丁寧に誘いを入れる。
そのときだった。
ラインに、まるで「触れられた」ような違和感が走った。
合わせると、ふわりとした重み。
アオリイカだ。
しかし、それは今までにない感触だった。
イカなのに、まるでこちらの動きを読んでいるように感じたのだ。
浮かび上がってきたその姿は、
透き通るようなボディと、どこか哀しげな瞳を持っていた。
そして、その日を境に、その“彼女”は、毎日のように現れた。
朝マズメにも、月の下にも、僕のエギの先に、ふわりと寄り添うように。
不思議と、釣り上げることはなかった。
彼女はいつも、手前まで近づいてくると、
まるで「今日はここまで」と言うように、スッと海へ帰っていく。
僕もそれを、自然と受け入れていた。
ある日、海が荒れていた。
波の干渉が激しく、釣りどころではない状態だった。
「今日はもう帰るかな…」
そう思ったそのとき、波間に一瞬、あの“彼女”の姿が見えた気がした。
でも、すぐに消えてしまった。
それ以来、彼女は現れなくなった。
潮の満ち引きを読んでも、月齢を合わせても、
あの透き通る影は、もう海に浮かぶことはなかった。
何日かして、浜辺を歩いていると、波打ち際に1つのエギが打ち上げられていた。
僕が使っていたものによく似ていたが、どこか違って見えた。
フックはなかった。まるで“もう、釣られないよ”という意志のようだった。
僕はそれを、ポケットに入れて帰った。
その日以来、釣りをするたび、必ずそのエギを持っていく。
彼女はもういない。
でも、波の音がふと優しく聞こえる瞬間、
僕のエギの近くに、ふわりと影が寄り添っているような気がする。


