川で生まれ、広大な海へと旅立ち、数年後に産卵のため故郷の川へ――。
多くの人が知る、サケ(鮭)のドラマチックな一生。
しかし、その最大の謎、「なぜサケは、数千キロも離れた大海原から、自分が生まれたたった
一本の川へ正確に戻ってこられるのか」という疑問に、明確に答えられる人は少ないのではないでしょうか。
磁力?。 太陽の位置?。
様々な説がありますが、その最も重要な鍵を握っているのが、実は魚類が持つ**驚異の「嗅覚」**なのです。
この記事では、サケの壮大な旅をナビゲートする「匂いの記憶」の秘密に迫ります。
答えは「匂い」にあった!スーパー嗅覚ナビゲーション
以前の記事でも触れた通り、魚の嗅覚は人間とは比べ物にならないほど鋭敏です。
そして、サケの嗅覚は、その中でも特に「記憶」と強く結びついた、特殊な能力へと進化しました。
彼らは、故郷の川が持つ**「世界に一つだけの匂い」**を一生忘れることなく記憶し、それを頼りに帰ってくるのです。
故郷の川の匂いを記憶する「刷り込み(インプリンティング)」
では、サケはいつ、どのようにして故郷の匂いを覚えるのでしょうか。
そのメカニズムは「刷り込み(インプリンティング)」と呼ばれています。
幼魚期に刻まれる「匂いの地図」
サケは、卵から孵化してしばらくの間、生まれた川で過ごします。
そして、海水に適応できる体に変化(スモルト化)し、海へ下る準備を始める時期に、サケの脳にはある重要な変化が起こります。
この時期に、故郷の川の独特な匂いを、強烈に脳へと刻み込むのです。
川の匂いとは、単なる水の匂いではありません。
その川の流域にある土壌や岩石から溶け出すミネラル、生息する水草やコケの種類、分解された
アミノ酸などが複雑に混ざり合って生まれる、いわば「ご当地の香り」。
人間には到底区別できないその僅かな違いを、サケは「故郷の香り」として完璧に記憶します。
この一度刷り込まれた「匂いの地図」は、数年にわたる海の生活の中でも、決して消えることはありません。
数千キロを越える壮大な旅のプロセス
記憶した匂いだけを頼りに、どうやって広大な海から川へたどり着くのでしょうか。
サケの旅は、複数の能力を組み合わせた、非常に高度なナビゲーションシステムによって成り立っています。
ステップ1:太陽コンパスで沿岸を目指す
大海原を回遊している間は、目印となるものがほとんどありません。
そこでサケは、**太陽の位置を基準に方角を知る「太陽コンパス」**や、地球の磁場を感知する
能力を使い、自分が生まれた大陸の沿岸部まで、おおよその方角を目指して帰ってくると考えられています。
ステップ2:嗅覚を頼りに故郷の川を特定する
そして、沿岸部にたどり着いてからが、いよいよ嗅覚の出番です。 陸地からは、無数の川が海へと流れ込んでいます。
サケは、川の河口に近づくと、記憶の中にある「故郷の匂い」と、目の前の川の匂いを比較し始めます。
もし匂いが違えば、別の川を探して移動します。
そして、記憶と一致する匂いを感知すると、その川を遡上し始めるのです。
さらに、川が二手に分かれる分岐点に来るたびに、両方の水の匂いを嗅ぎ分け、より故郷の匂いが濃い方を選択します。
この地道な確認作業を何度も何度も繰り返すことで、最終的に自分が生まれた支流の、まさにその場所までたどり着くことができるのです。
科学が証明した「匂い仮説」
この「匂い」を頼りにしているという説は、単なる推測ではありません。
過去に行われた数々の科学的な実験によって、その正しさが証明されています。
有名なのは、サケの鼻に栓をして嗅覚を奪う実験です。
この実験では、鼻を塞がれたサケは母川に帰ることができず、他の川へ迷い込んでしまう確率が非常に高くなりました。
また、ある特定の化学物質(アミノ酸など)を稚魚の時期に覚えさせ、数年後、全く別の川に
その物質を流したところ、サケたちがその川に誘い込まれて遡上した、という実験結果も報告されています。
私たちが考えるべきこと – 鮭の旅と環境問題
この生命の神秘であるサケの母川回帰は、今、深刻な問題に直面しています。
ダムの建設はサケの遡上ルートを物理的に遮断してしまいます。
また、工場排水や生活排水による水質汚染は、川固有の繊細な匂いのバランスを破壊し、サケが持つ精密な嗅覚ナビゲーションシステムを狂わせてしまう危険性があります。
私たちが美しい川を守ることは、単に景観を守るだけでなく、サケのような生き物たちが、何万年も繰り返してきた命のサイクルを守ることに直結しているのです。
まとめ
サケが生まれた川に戻ってくる理由は、幼いころに刷り込まれた故郷の川の「匂いの記憶」を頼りにしているからです。
それは、人間の理解を超える精密さと力強さを持った、生命の偉大なドラマと言えるでしょう。
スーパーで切り身として売られているサケを見る目が、今日から少し変わるかもしれません。
彼らが経てきたであろう、壮大な旅路に思いを馳せながら。


