和歌山といえば、かつての徳川御三家・紀州藩のお膝元。
現代の私たちは「紀州藩=和歌山県」と思いがちですが、歴史を紐解くと、その境界線は今の県境とは大きく異なっていました。
実は「三重県」の半分も紀州藩だった?
驚くべきことに、紀州藩の領地は現在の和歌山県全域だけでなく、三重県の南部(南勢・伊勢・志摩の一部)まで広がっていました。
松阪や田丸(現在の玉城町)といったエリアも、当時は紀州藩の統治下にあったのです。
伊勢参りで有名なあの地域も、実は和歌山のお殿様が治めていた時期があったというのは、意外な事実ですよね。
逆に「和歌山県内」なのに紀州藩じゃなかった場所
さらに面白いのが、今の和歌山県内にも「紀州藩ではない場所」が存在したことです。
例えば、新宮市を中心としたエリアは、紀州藩の付家老である水野家が治める「新宮領」として、半ば独立した形で管理されていました。
また、高野山のような寺社領も、藩の直接的な支配とは異なる特別な場所として扱われていたのです。
「南紀」という呼び名の深さ
私たちが普段使っている「南紀」という言葉も、この広大な領地を象徴しています。
紀伊国(和歌山県+三重県南部)の南側を指すこの呼び名は、県境を越えた歴史的な繋がりを今に伝えています。
串本から新宮、さらには熊野灘を越えて三重県側まで、海と歴史で繋がったひとつの大きな文化圏だったわけです。
歴史を知れば、旅と釣りがもっと楽しくなる
みなべ町から串本まで、和歌山の海岸線を走る際に「ここはかつて、どれほどの規模の藩だったのか」と思いを馳せてみてください。
ただの風景が、少しだけ違って見えるはずです。

